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【No.001】クリックスヤスダ追憶記

日韓ワールドカップ開催を目前にした5月、我々サッカー関係者に衝撃的なニュースが流れた。 それはサッカーシューズの老舗である(株)クリックスヤスダ倒産のニュースであった。 クリックスヤスダの前身は、ある年輩以上の人は知らぬ人は一人もいない、誰もが一度は履いた ヤスダのサッカーシューズを創出した安田靴店である。

5月17日付読売新聞は、惜別の情を込めて倒産を報じた。そこには次の記事が書かれていた。 「国内でのサッカーシューズ製造販売の草分け安田は1932年、東京・茗荷谷で安田靴店として開業。 創業者の安田重春さん(91歳)が写真や選手の意見を参考にして独自にシューズを製造した」とあった。 1932年(昭和7年)は私の生まれた年でもある。 

さて、この記事は私に忘れがたい追憶を呼び起こしたのである。私の父、長坂勝一の実家は安田靴店から 歩いてほんの3,4分の所にあった。春日通りを走る市電(都電)清水谷停留所の角に安田靴店があり、 その角から北に白山通りへ道を下って行くと父の実家があった。番地は現在の小石川五丁目で、 いうなれば安田靴店と父の実家は春日通りから入る道沿いにあったのである。 今はこの道は中央に桜並木の分離帯のある環三通りとなっていて、両家とも、その旧敷地はこの広い道路に 呑み込まれてしまっていて昔の面影を残すものは何もない。 

私は5歳の頃と思うが父の実家で生活をしたことがあり、安田靴店には多分父が連れて行ったとものと思う。 当時、店は間口一間の小さな店であった。引き戸を開けて店に入って安田重春さんと会話をした記憶がある。 もちろん何を話したかは憶えていないが、前掛けをした重春さんが靴の修理か製造をしているところで 重春さんの後ろにある靴棚の様子が今でも目に浮かぶようによみがえって来る。 

当時、父は東京府立第九中学校(現在の都立北園高等学校)の教員をしていて、サッカー部の部長として サッカー部の指導に取り組んでいたから、安田靴店にはしばしば行っていたと思われ、その時に小さかった私を 連れていったのであろう。

安田靴店のあったところから大塚方面へ一停留所行くと、東京高等師範学校、文理大学があり、また春日通りを 隔てて高等師範付属中学校あった。東京高等師範学校は戦後、東京教育大学となり現在の筑波大学となった。 東京高等師範学校の校庭では日本で初めてサッカーが行われたことで有名である。 北へ目を向けると駒込になり、そこには東京府立第五中学校、現在の都立小石川高等学校があった。 白山通りの向こうは本郷となり、東京帝国大学、現在の東京大学があった。いずれもサッカーが盛んに行われていた。 言うなれば安田靴店は日本サッカーの発祥の地にあったといえよう。 

父の弟に長坂謙三がいるのであるが、この私の叔父に当たる謙三はサッカーの名手として知られた人物であった。 叔父は、実家近くの東京府立第五中学校(現在の都立小石川高等学校)の初代のサッカー部主将を務め、 卒業後、慶応大学医学部に進み慶応大学サッカー部を創設したのである。 

先の新聞記事にある安田重春さんが、写真と選手の意見を聞きながら独自のサッカーシューズを製造したとあるが、 その写真の提供者は叔父謙三であり、意見を聞いた選手は叔父謙三なのである。謙三は慶応医学部に入ったから、 多分、ドイツやイギリスのサッカーに関する情報を得ていたにちがいない。叔父謙三は写真ばかりではなく イギリスからサッカーシューズを取り寄せ、それを安田重春さんに分解させて、それと同じ型をとって復元させたのである。 こうして国産の第1号サッカーシューズが生まれた。

叔父謙三は府立五中から慶応大学へ進んだ仲間と共にサッカーの戦術研究と実践を続けていた。 叔父謙三のサッカーの戦術研究は3バックシステムを独自に考案したことである。

その当時、日本では2FBが広く行われていたのであるが、ヨーロッパでは既に3FBへ移行していることを 文献から知ったのであろう、2FBの間にフルバックセンターと名づけて一人バック入れるシステムを考案して 自分のチーム慶応医学部チーム、慶応病院チームで実験をしていた。この試みによって慶応病院チームが 第3回実業団大会に初参加して優勝する成果を収めたのである。叔父謙三は、自ら全ての試合にフルバックセンター として入り、その動きを研究したのである。

このような実験があって1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックにおいて、日本が現地についてから 他の国が皆3FBを用いていることを知り、急遽2FBから3FBに切り替えることが出来、強豪スエーデンを破る 歴史的快挙を生むことになったのである。

この叔父謙三の3FBの研究は1974年に日本サッカー協会が創立50周年を記念して発行した「日本サッカーの歩み」

P110〜113に、浜田諭吉氏(慶応OB)がその論文全文を載せて、ベルリンオリンピック奇跡の勝利の裏面史を紹介している。

安田靴店と叔父謙三の話は私の憶測ではなく、私の叔母智子(86歳)が生き証人として、現在、健在なのである。 父の末の妹に当たる、私の叔母智子は、私に、時折、叔父謙三の話をしてくれるが、その話の中に、当時、叔父謙三が 外国からサッカーシューズの写真を取り寄せて、安田靴店にいって型を作らせては、いろいろと注文をつけて サッカーシューズを作らせたことが安田靴店がサッカーシューズ作るようになる元になった、と語っている。 

いうなれば、叔父謙三と安田重春さんによって独自のサッカーシューズが開発されていったのである。 1936年のベルリンオリンピックに出場した早大、東大を中心とした全日本チームは、皆、安田のサッカーシューズを 履いてグランドに立ったに違いない。

さて、その時作られたサッカーシューズはどのようなものであったろうか。

私は中学2年生の時、下駄箱の奥に叔父が遺した埃にまみれたサッカーシューズを見つけた。 埃を払い油をつけて磨くと立派に履けるサッカーシューズとなり、私はそれを履いてボールを蹴った。 私が履いた叔父の遺品であるサッカーシューズは昭和13年頃叔父が履いていたものに違いない。 というのは、叔父は昭和14年に結核に罹り長期療養の身となり昭和16年に亡くなったからである。 私は今でも、その靴の姿をはっきりと憶えているが、かなりの期間に亘って叔父はこのスパイクで ボールを蹴ったことは明らかであった。

そうすると、このサッカーシューズは安田靴店の初期の頃に作られたものと考えられる。 靴は牛皮で作られていて色は変色して焦げ茶色をしていた。現在のサッカーシューズと比べるとずっと重く、

つま先部分は4枚くらいの薄い皮が重ねられて硬く固められていてトーキックに適するように作られていた。 かかとの部分も同様に厚く硬く作られていた。また靴の裏は靴の上部と手縫いで縫合されていて、その上に もう1枚の皮底が打ち付けられて厚い靴底になっていた。靴底は中央線に沿って直線上に少し盛りあがっていた。 靴裏のボッチは厚い皮を丸形の鑿で打ち抜いたものを2枚重ねて釘で打ち付けていた。靴裏の先と最後部には 三日月型の皮を打ち付け、ボッチは前部に4個、後部に2個打ち付けていた。

この靴が何時作られたかは判らないが、昭和10年として叔父が3年使い、5年空けて私が3年使ったから、 最低6年間は使ったことになる。その間、修理するところは裏底の円いボッチと前後にある三日月型の部分を 取り替えるだけであった。そのように見ると、現在のサッカーシューズとは比べものにならないほど 頑丈で耐久性のあるものであった。事実、私は高校、大学を通して2足しかサッカーシューズを買っていないのである。

私の安田靴店の記憶は5歳の頃から一気に14歳まで飛ぶことになる。私は6歳になると練馬区へ引っ越した からである。私が14歳というのは1946年、中学2年生である。

現在は文京区小石川五丁目というが、当時は小石川区久堅町といった。この辺り一帯は1945年4月6日の 米空軍B29による東京大空襲によって一面の焼け野原となった。

空襲のあった翌日、交通機関はもちろんストップしていたから練馬の家から歩いて、小石川に住んでいた祖母、 叔母の安否を尋ねて焼け野原の街を歩いたことを思い出す。終戦になると、その焼け跡の中で復興は始まり、 疎開先の千葉から戻った安田重春さんは焼け跡にバラックを建て店を再開したのである。私が訪れたのは多分 終戦の翌年1946年(昭和21年)の秋のことであったと思う。

それは、安田さんの長男の安田一男氏(現東京都サッカー協会長)がサッカーの練習中に足を骨折したために、 その見舞いにいった時であった。私と安田一男氏は中学では同級生の仲であった。足にギブスをした彼に会った のであるが、店の中には当時の日本を代表するサッカー選手がいたのである。 その人は竹腰重丸氏であった。竹腰さんはしきりに安田重春さんと話をしていたが、私にも話しかけてくれた。 その時は、その人があの全日本の選手、そして監督を務め、更に日本サッカー協会理事長になった竹腰さんであるとは 知るはずもないが、話の内容からすごい選手に違いないと思ったものである。 

その後、何回か見舞いにいったが、いつもサッカー選手がたむろするようにいたのである。それは戦後の混乱期にあって、

戦争でばらばらになった選手達、戦地から生還した選手達が集まる場所になっていたに違いない。 おそらく東大、早大、慶大、東京高師の選手やOBたちであったろう。安田靴店とはその様な場所であったのである。  戦後の日本サッカーの再建は、バラックの安田靴店の土間から始まったのではないだろうか。 

1964年、東京オリンピックが開催されたときは、安田靴店は押しも押されぬサッカー専門店として 全国にその名は知れ渡り、サッカーシューズを入れる青色のビニール袋は全国のサッカー選手が手にしていた。 叔父謙三は、患者から感染した結核に犯され1941年(昭和16年)に若くしてこの世を去った。 病床にあっても、なお、サッカーの戦術の研究を続けていたという叔父謙三は、戦後の安田靴店の繁栄を草場の陰 からじっと見つめていたのである。そして今、安田靴店消滅の悲報をどのような気持ちで聞いたであろうか。

(2002年6月 記)

by 長坂幸夫(元顧問、東京都サッカー審判協会会長)


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