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【No.006】当時の実力

近ごろは小学生の低学年でもリフティング20 回は当たり前?だそうだが、我らが青高サッカー部誕生当時、 つまり1964年頃(もう40年以上も昔)では、まだリフティングという言葉もなかった(単に我々が知らなかっただけ?)。

ではどのように呼んでいたのだろうか?浮き球とか蹴鞠と言っていた?(ごめん、これは完全にウソ)。 でもリフティングではないことだけは確かだが。さて、当時の我々のリフティング能力だが、いいとこ10回。 「よーし10回連続続いたものは練習おわーリ」というかけ声とともに蹴り始めるのだが、誰もがなかなか終わらない。 今のように首だの肩だのは使わない。 ただひたすら足の甲と腿で頑張る。しかも右足1本。左足などを出そうものなら、いきなり明後日の方向に行ってしまう。 そんなこんなで最高でも22回だか24回だったと記憶している(もちろん私ではないが)。

パス練習はというと、ひたすら三角パスのみ。さらに得点パターンはサイドからのセンターリング専門。 ヘディングやスライディングキックで華麗にネットを揺さぶることなど、年に何回もない。 どさくさにまみれて身体の一部に当たりながら、ゴロンゴロンとボールが勝手にゴールラインをこえるというもの。 こんな有様だから負けた試合の方が大部に多いのだが、いま振り返ってみると何回かは試合に勝ったと思う (当時の戦績表が残っていたらぜひ確認したい)。よく勝ったものだ。

また当時のポジションは、前列はセンターフォードを中心に左右のインナー、左右のウイング。中列で右ハーフ、左ハーフ。 後列としてセンターバックと左右のバック。WM型の鉄壁の布陣であった。現在のようなわけの分からないリベロだとか、 オフェンシブミッドフィルダーなどという長ったらしい名前はない。さらにたまにハーフ陣が攻撃に参加することはあっても バックスは守り専門。単純明快、とても分かりやすくて良い(我々の場合はとくにフォワードと言っても攻撃専門ではなく、 試合によっては攻撃 2:守備 8 のときもあったのだが)。

年寄りが昔話しを始めるときりがない。今日の青山高校サッカー部は随分と強くなり、都大会も「いいところまで」行くと聞く。 全国大会も近いぞ!そんな栄光への道も最初は「リフティング10 回」「三角パス」からのスタートだったのだ。 これからの青山高校サッカー部の未来を、ひとりのOBとして「静かに」「熱く」見守りたい。

(2006年5月14日 記)

by 高橋増郎(1966年卒)

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